[副校長] 匿名という名の神

それにしても誹謗中傷が絶えない世の中になったものである。SNS上では、誰かに対し「私の正義」を振りかざしている人が山ほどいる。匿名で言えてしまう所に原因があるとも言われている。批判されている人の名前や顔は分かるのに、批判している人の顔や名前は分からないという状況が作れる様になる前までは、ここまで誹謗中傷が溢れる世ではなかったと思う。

自分が幼い頃、学校では意見があるときは手を挙げて、名前等を明らかにするよう教育された。父が観ていた時代劇にも「卑怯者、名を名乗れ!!」という台詞が度々あった。名前を名乗らずに人を攻撃する者は卑怯者なんだと、子供ながらも肝に銘じたものである。

社会で匿名が許される様になったのは、いつ頃のことなのだろう。私の記憶と想像では、ラジオの深夜放送番組で人気DJがリスナーからの手紙を紹介するようになった頃だと思われる。実際私が匿名という言葉を知ったのも、小学生5年生頃から聴き始めた深夜放送の中であった。しかし当時の匿名の使われ方は今とはだいぶ違っていた。番組で紹介される匿名希望さんの手紙は、どれもが自ら体験した恥ずかしい話や自分の内面を赤裸々に吐露したものに限られていた。その多くが生きる上での示唆に富み、苦悩しながらも社会で真面目に生きて行こうとしている諸先輩方に憧れさえ感じ得た。番組制作者もリスナーも、当時の社会全体が匿名の使い方をわきまえていた時代であった。

自分の発言には責任を持つ。そのためには自らの顔と名前は公にする。仮に発言に不適切なものがあれば素直に謝る。たったこれだけの事が、何故出来なくなってしまったのだろう。

他者を徹底的に叩くための道具と化した言葉。他者の失言を許さない社会。他者を叩いている側の言葉は絶対正義で、叩かれている側は完全悪。まるで姿が見えない雲上の神が、地上の民に天罰を与える構図に見えてくる。

こんな言葉や社会がまっとうな訳がない。第一、匿名の現人神と暮らす毎日なんて息苦しくて仕方ない。しかし実際はお互い顔と名前を持つただの人間である。人間だから失言もする。人間だから曖昧なところもあれば躓きもするのだ。人としての輪郭のない言葉に苦しめられ命を絶つ人もいる。悩める匿名さんの体験に励まされ、生きる力を得る人もいる。

人が人として人に発する言葉だからこそ、人としての心を込めたい。自分という人間の生き様を言葉で伝えたいと思うのだ。

匿名で自分の至らなさを暴露し自戒の念にさいなまれながらも歩み続けていた人生の先輩方に続き、我も人の道を歩いて行きたい。

大切なのは、他者を叩く事ではない。自分自身の生き方なのである。

 

 

2020年2月26日

霞ヶ関高等学校

副校長 伊坪 誠

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