[副校長]学校での学び その1 政治的教養
『 学校での学び その1 政治的教養 』
政治に関心を示す若者が増えてきた。このことは今年の秋に行われた参議院選挙の18歳、19歳の投票率41.74%が、三年前(2022年)の参院選の35.42%を上回っていたことからも裏付けられる。その要因としては、候補者のSNS投稿、YouTubeでの配信など、ここ数年の間にSNSを使った選挙戦略が普及したのと、それを応援する有権者がSNS上を中心に増えた事があげられる。そういった意味ではSNSが若者(若者だけではないが、ここではあえて若者に限定)と政治との接点となっている。
しかしそこにはいくつかの問題もある。人々の不安を煽る過激発言を無責任に拡散する政治家。自分の政治信条や意見と合わぬ者に対して、匿名という立場で激しく他者をたたくネットユーザー。他者の言葉に耳を傾けることなく、己の主張こそが正義と言わんばかりの者達…。若者が政治に関心を寄せるのは喜ばしいことだが、どれもこの国の将来に不安を感じざるを得ない。
先日もあるニュース番組のキャスターが政府に対する疑問や危惧を口にしたことに対して、「けしからん!」とSNS上で炎上騒ぎになっているというニュース(この情報もネットで得たものだが)を耳にした。そもそもジャーナリズムは社会に問題提起をし、政府や行政を監視するという役割を担う立場である。それは先の大戦中、政府に迎合し戦争を賛美した反省から生まれ、現在まで守り続けているジャーナリズムの使命なのだ。(そこが、ジャーナリストと単なるコメンテーターとの言葉の重さの違いでもある)
また別のニュースでは、ある問題について首相に質問した野党の政治家が悪者になっているという話を知った。これも国の舵を握る政府に対して、その方針を問うという民主政治における野党としての使命を果たした結果の出来事ではないか。仮に政府の方針や政策に誰も疑問を抱かず、質問も批判もしない(させない)。声の強さや大きさが正義となり、議論よりもスピードを優先させる社会となってしまったならば、それはもはや民主的な社会とは言えまい。
戦後の社会を創造してきたのは、戦争を体験した国民と政治家だ。彼らは二度と戦争は起こすまいとの政治信念に立ち、この国と国民をしっかりと守って来た。しかし、戦争体験者が政治や社会の第一線を退いた現代、その役割を継承するのは戦争を知らない私たちである。その我々が、先人達が守り続けてきたことを学ばずに、多様な考えの者達と議論を重ねることなく、スクラップ・ビルド的に社会を再構築しようという風潮は、私には危険な匂いしかしてこない。
教育基本法には「良識ある(良識あるとは、単なる常識以上に十分な知識をもち、健全な批判力を備えたという意味)公民たるに必要な政治的教養(政治的教養とは、現実の政治の理解力及びこれに対する公正な批判力。民主国家の公民としての必要な政治道徳、政治信念という意味)は、教育上これを尊重(尊重とは、政治的教を養うことに努めるという意味)しなければならない」という文言がある。その使命を負う学校教育は、若者が政治に関心を持つようになって来た今こそ、良識ある公民の育成と政治的教養の醸成に一層努める必要があるのだ。
民主主義は意見の異なる他者と熟議を重ね、より良い解を導き出していく地道な作業。その行為を腰を据えじっくりと行い続ける胆力を、政治家も有権者も持たねばならぬ。その土台となるのは、違う立場を想像できる力。それを身に着けさせる場が、良識ある公民の育成と政治的教養の醸成を使命とする学校の大切な役割でもある。
学校は決して楽しいだけの場所とは言えない。自分の思い通りに行かぬことや辛いこと、時には答えのない問題や自分の思う正義が通用しないこともあるだろう。しかしそれらを経験しながら人は他者を思い、立場の異なる人々を想像できるようになるのだ。そのような大人(有権者)が様々な課題に熟議を重ね問い続ける先にこそ、個人にもこの国にも明るい未来があるのではないだろうか。
霞ヶ関高等学校の生徒達には、是非そんな人になって欲しい。だからこそ先生達は今日も、君のことを学校で待っている。
2025年11月27日
霞ヶ関高等学校
副校長 伊坪 誠

