[副校長] イタリア娘

イタリア娘

彼女が僕のところに来てから、まもなく5年になる。まさにひと目惚れの出逢いだった。彼女はイタリア製のクルマで、ディーラーに初めて見に行ったその日のうちに買うことを決めた。周囲の人達は、僕の一目惚れに「彼女は気分屋だと思うよ」「お金がかかる娘だよ」など忠告してくれたが、僕の耳には入らなかった。恋は相手の欠点をも魅力に変えてしまうものなのだ。とっくの昔に忘れてしまっていた蒼い感情が、体中を巡り始めていた。

それからの数年間、赤いドレスを身に纏った若きイタリア娘は、常に上機嫌で心地の良いメロディ(エンジン音)を奏でながら何処にでも一緒について来た。海でも山でも、北でも南でも、抜群の健脚で速く快適に搭乗者を運んでくれた。付き合えば付き合うほど、益々魅せられて行くと共に空気の様に感じて来るのは、男女の恋愛とまるで同じだ。クルマとは、単なる移動のための足ではなく、人生の一時期を共に生きるパートナーである。少なくとも僕は、このクルマと出逢って、そのことを再確認させられた。

母か亡くなる前年の夏、このクルマに乗り二人で日帰りの旅をした。岐阜までの往復800km超の行程だ。その旅の帰りの車中、高齢の母が流れゆく山々の景色を眺めながら「こんなに長い距離を走ったのに、横に乗っていて全く疲れなかったわ。いい娘(クルマ)だねぇ」としみじみと語った。その時の母の声と横顔を、母が亡くなった後も、クルマに乗る度になぜだか思い出している自分がいる。クルマが乗せているのは人や荷物だけでない。大切な人たちとの沢山の思い出も乗せて、世界中の道を走り続けているのだ。

出逢いの先に別れがあるのは、人もクルマも同じ。僕は近々このイタリア娘とお別れすることを決心した。クルマはしっかりメンテナンスをすれば、年を重ねても歳をとらない。いつまでも若々しく美しい姿を保っていられる。しかし人間はそうは行かない。年々動体視力や反射神経が鈍り、イタリア娘を満足させる走りが出来なくなってきた。仕事のリタイアが近づいている身では、お金がかかる彼女との暮らしは今後段々と辛くなって行くのも明白だ。彼女を査定してくれたディーラーの誰もが異口同音に「いやー、綺麗ですね。エンジンまでピカピカ。よっぽどこの娘のことが好きだったんだという事が良く分かります。これなら、すぐに次の相手が見つかりますよ。」と言ってくれた事が、別れを躊躇していた僕を決心させる決め手となった。他者から、彼女との付き合い方を評価された事は、一方的に彼女に別れを告げなければならない僕にとって、せめてもの救いとなった。

夏至の日の帰り道、ビルの屋上でイタリア娘と二人で夕暮れの景色を眺めた。毎年一緒に過ごした夏至の日も、今回が最後。語り尽くせない思い出が、次々と空に浮かんでくる。彼女が気持ちよさそうに歌う声が好きだった。キラキラ輝く彼女を見ているのが楽しかった。彼女に沢山の笑顔をもらった。彼女を大切にしてきたから、最後までお互いを守り続ける事が出来た。大切なものとのつきあい方は、大切な人とのつきあい方に通じる。そのことを教えてもらった数年間だった。今ある人間関係も、これから経験していくであろう出逢いや別れも、意味ある素晴らしいものにするのは、相手でなく自分の姿勢なのだ。

まだまだ語り尽くせぬ想いの中、夕暮れの屋上を後にした。

いつものように美しいメロディを気持ちよさそうに奏でながら走り出す彼女は、まだ僕との別れを知らない。

 

2021.6.22

霞ヶ関高等学校

副校長 伊坪 誠

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