[副校長] 題名「     」第六話

題名「     」第六話

道に倒れて気を失った僕は、幾つかの夢をみた。パンと見せ物を提供されて歓喜する古代ローマ市民と、それを眺め悦に入る政治家達。巨大石像建設の為の資材を無言で運ぶ人々と、鞭を持ち彼らを監視しているメソポタミア地方の兵隊。為政者の前では愚かな方が安泰な時代もあれば、危険に晒される事もある。

またこんな夢も見ていた。眩しい光が降り注ぐ石作りの白い部屋で熱く議論を交わしている賢人たち。中央に立つのは哲学者のプラトンとアリストテレス、大理石の机で書き物をしているのが「万物は流転する」との言葉を残したヘラクレイトス。弟子達に幾何学の説明をしているのは・・・数学者のユークリットだ。傍らにはギリシャの哲学者エピクロスが誰かと話している。きっと「幸福とは精神の喜びを追求することだ」と説いている筈だ。

部屋の中にはギリシャ神話の英雄の像も見える。部屋の左で竪琴を持って立つのはギリシャ神話で理性と調和の神ともされる太陽神アポロン。部屋の左にはメデュウサの首を持って立つローマ神話の女神ミネルヴァ、彼女は学問の化身であり、学問や芸術を研究する団体の守護神でもある。西欧では確か彼女はギリシャ神話の女神アテナと同一視されている。という事は戦争の女神でもある筈だ。学問と戦争の神が同じなのは、どこか不思議である。

「なぜ僕がこんなにスラスラと目にした人物達を言い当てられ、説明出来るのか」って? この話を読んでくれているあなたは、ようやく僕に興味を示してくれたね。僕が彼らを知っていたのは、僕が世界史好きの高校生で、授業中に眺めていた資料集の中に目の前のシーンとまったく同じ場面が描かれている絵を発見し調べたことがあったから。この絵の作者はルネサンス期の芸術家ラファエロ。作品名は「Scuola Atene」(アテナイの学堂)、今でもこの絵は、ヴァチカンにある。

僕の夢の中では、大勢の賢人達が活発に議論を重ねている。時には激しく対立することも。しかし議論が終わると彼らは穏やかな顔になり、相手に優しい笑顔を返していた。彼らのいる部屋は雲の上で、その遙か下には古代ギリシャの人々が戦争を中断してオリンピアの祭典がおこなわれていた。陸上競技だけではない、祭典では演劇の上演もあれば、音楽や絵画の競技もおこなわれている。選手も声援を送る観衆も、皆真剣だ。しかし競技を見つめる眼差しは皆どこか優しげ。その理由を賢人の一人が僕に耳打ちして教えてくれた。「彼らのおこなっている競技は、オリンピアの神に捧げるもので、私的な利害関係も政治的な目論見も無いからじゃよ。」

それを見聞きした僕は、近代オリンピックの現状と比較せずにはいられなかった。そして耳打ちをしてくれた賢人に、自分の意見をぶつけてみた。

「僕の時代の僕の国の首相は『オリンピックは国民に勇気と希望を与える。だから開催するのです』と言っていたが、それはスポーツだけが持つ力ではない。演劇でも音楽でも絵画でも、真剣に取り組み披露されたものは皆その力を持っている。演劇や音楽祭、展覧会だけを禁止するのも違えば、オリンピックだけを特別視・神聖視するのもやはり違うのではないか。」

僕の意見を聞き終えた賢人は、穏やかな眼差しで僕を見詰めると「君も哲学者の卵じゃのぉ」と言って笑顔になった。

僕は賢人に「哲学なんて、『ああでもない、こうでもない』と語るだけで何の役にも立たないじゃないですか!」「僕はもっと人の為になる仕事をしたいんです!」と少しばかり興奮して言い返した。

賢人は、興奮している僕の目をじっと覗き込み「Ars longa, vita brevis」(アルスロンガ、ウィータブレウィス)と、呪文の様な言葉を残すと、ゆっくりと去っていった。

何故だろう、意味も分からないこの言葉が、その後いつまでも僕の心の中で響き続けていた。

地上で行われていた陸上競技の勝者が決まった様だ。オリーブの枝で編まれた冠をかぶせられた勝者が、高らかに右腕を上げた。その腕に神がそっと触れ勝者を祝福する。勝者の隣に立つ敗者たちの額から流れる汗が、西日に照らされてキラキラと輝いている。神は敗者の汗に宿る努力と勇気にも祝福を忘れなかった。

勝者と敗者を称える観客の歓声がいつまでもギリシャの青空に木霊している。

「Ars longa, vita brevis」(アルスロンガ、ウィータブレウィス)

いつのまにか観客の歓声が、僕にはそう聞こえていた。

 

つづく

 

2021.8.26

霞ヶ関高等学校

副校長 伊坪 誠